湯村温泉郷巡り(2009/4/30〜5/1)

由緒ある温泉郷。808(大同3)年に弘法大師が、杖で大石を寄せたところから温泉が湧いた「杖の湯」伝承や、鷲(わし)が傷を癒すために舞い下りた「鷲の湯」伝説が今に伝わり、武田信玄公のかくし湯としても知られている。現在、源泉は12箇所あるそうだ。

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(甲府湯村温泉公式HP)

湯村温泉旅館協同組合の宿の宿泊客ならば、「厄除け湯巡り手形」をGETできる。今回、「甲府富士屋ホテル」を利用したので、フロントで購入(2日間有効:1050円)した。湯巡り出来る宿は9箇所「湯村常盤ホテル」「甲府富士屋ホテル」「楽水園ホテル」「柳屋」「湯村ホテルB&B」「旅館明治」「湯本ホテル野良湯」「ホテル吉野」「杖温泉弘法湯」。それぞれ500円で入湯できる。
湯村温泉郷では近年、ピーク時は30軒以上あった旅館の廃業が相次ぎ、現在は15軒余りとなっている。最近では、2008年1月に、「ホテル湯伝(現在は特別養護老人ホーム)」が閉館している。明治時代から同温泉郷を支えてきた老舗旅館だけに、地元関係者からは閉館を惜しむ声が上がっったそうだ。ホテル湯伝は1910(明治43)年創業で、同温泉郷で最も古い旅館の一つ。約2,700平方メートルの敷地に8階建ての建物、43室(収容客数230人)を備える大規模施設。館内には、武田信玄の入湯記録が残る古文書や鎧(よろい)、江戸時代に使われた嫁入りかごなどが展示され、古くから県内外の観光客に親しまれてきた。団体客を増やそうと、80〜90年代に増改築を進めたが、バブル経済の崩壊で客足が遠のき、資金繰りも悪化していったのが閉館の理由だそうだ。
湯村八蹟巡り 開湯伝説 ホテル弘法湯裏「杖の湯跡」

大同3(808)年、弘法大師が東北巡行の帰りに、信州から甲州に入り、近くの厄除地蔵に泊まった。道路の真ん中に大石があり、旅人が通行に困難な状況だった。大師は呪文を唱えながら杖にて寄せるたところ、温泉が湧き出しといわれている。「杖の湯」「弘法杖」といわれ、今にその名残がある。旅館街が出来る以前は、この杖の湯・鷲の湯・谷の湯・産甫ノ湯が銭湯という形で庶民に愛されていた。この3軒の内の何れかかが葛飾北斎によって描かれている。
湯村八蹟巡り 開湯伝説「鷲の湯」

「旅館明治」の南隣に、共同浴場「鷲(わし)の湯」がある。現在、公衆浴場として、一般に開放されている。「鷲の湯」は古くからの源泉「鷲の湯」の跡にある。鷲の湯の開湯伝説は、昔、一羽の鷲が飛んできて一日に何度も萱の中に出入りしていた。村人が不思議に思って調べると白煙が立っていて、掘るとお湯が出てきたというもの。湯村にはいくつかの共同浴場があったが、「鷲の湯」以外はその跡に標しがあるだけである。入りたかったが、時間がなく断念。
湯村八蹟巡り 谷の湯(馬の湯)跡

塩澤寺の門前から延命橋を渡り少し下った「柳屋」とナック湯村(元富士野屋)の間に「谷の湯」という湯が、昭和35年まで沸いていたと言う。名前の言われは「鬼の湯」がなまったとか。とても湯量が豊富で塩辛い温泉だったそうだ。この「谷の湯」は湯量が豊富だったため、湯村の人は溝を掘り湯川の横を掘って村境へ流れるようにした。ところがこの水は付近で田んぼや畑をしている処へ入ってしまい、作物に悪い影響が出てしまった。怒った村人は農耕馬をつれてこの溝を堰き止めてしまったため、今度は湯村の畑がお湯びたしになってしまい、これが元で隣の村といさかいが起こった。人々が争っていると土手づくりで疲れた馬や病気の馬が、気持ちよさそうに次々と溜まったお湯に入り始めた。人々は争いをやめてこの様子を眺めていた。しばらくすると病気の馬や疲れた馬は元気になり、それからはこの湯を馬の湯と呼ぶようになったそうだ。このお話よりかなりあと、旧国鉄が中央線を開通させたとき線路の敷石に使うため岩山である湯村山から砕石した。それが今の石切場跡だが、ここから切り出した石は当時馬車で運び出されていた。石を満載した馬車を引く馬もこの馬の湯を使っていたようだ。中央線の甲府までの開通は明治36(1903)年で、昭和30年ごろまではこの時の馬の湯の湯船が道から少し入ったところに、浅瀬から順に深くなり、また浅くなる変わったプールのような形で残っていたそうだ。
湯村八蹟巡り 塩澤寺(厄除地蔵尊)

厄除地蔵で有名な寺で、天暦9(955)年に空也上人によって開かれたと伝えられ、国指定の地蔵堂、県指定の石造地蔵菩薩坐像、無縫塔、舞鶴の松など文化財がたくさん残されている。毎年2/13の正午から14正午にかけて厄除地蔵尊祭が開かれ県内外からの参拝者でにぎわう。
湯村八蹟巡り 湯谷神社(湯の神様)

共同浴場「鷲の湯」の南の山すそに、湯谷神社(ゆやじんじゃ)がある。この神社は、秋葉権現、大宮さん、湯村温泉郷の守り神である湯谷大権現を合せて祭神としてまつっている。湯谷権現は、慶長6(1601)年の検地帳(広瀬家文書)にも書いてあり、これ以前からまつられていた古い神社であることがわかる。また、湯谷神社より少し上がったところにある秋葉権現は火伏の神様で、天保2(1831)年の大火のあと、駿河の秋葉さんを移し、火伏の神様とまつったと伝えられている。この境内の前で、8月には湯村観光協会主催で「湯村ふるさと祭り」が開催されている。平成10(1998)年からは、湯谷神社の境内を使って、オールドローズ・ジャズコンサートが開かれ、大勢の人で賑わっている。
湯村八蹟巡り 地蔵古墳(湯村山遊歩道)

湯村山の西の遊歩道沿いにある2つの古墳は、それぞれ地蔵古墳、こうもり塚と呼ばれている。歩道入口に熊注意の看板あり。

下記は次回の宿題とします。
八の宮跡と太宰治(旅館明治)、加牟那塚古墳(6世紀後半)、万寿森古墳 (6世紀前半最大の古墳)
湯村山狼煙台
狼煙台を再現したそうです。

湯村山城跡

1523年、武田信虎が築いた山城。躑躅ケ崎館(1519年完成)と甲府城下町の南西出入口を監視、防衛する重要な役割を果たしていた。また、市川大門の蛾ケ岳(ひるがたけ)への、のろし台としての役割もあった。湯村山城跡は、湯村山の山頂部を中心に東西約65m、南北約130mの範囲に広がっている。主要な部分は一の郭、二の郭。巨石や土塁を上手に利用した堅固な防備を見ることができる。