『ビール』のウンチク

【日本のビールの歴史】
ビールがそれまで日本の酒類のトップであった清酒を抑えて消費第1位となったのは、昭和34(1959)年のこと、それ以後ビールは毎年トップの座を守り成長し続けてきました。2001年の年間生産量は世界第5位です。2003年では、生産量は横這いですが他国が上がり第7位と後退しています。2006年も順位に変動はありません。

2003年 国別ビール生産量 キリンビールによる
※日本の生産量については、ビールと発泡酒の合計
  2006年 国別ビール生産量 キリンビールによる
※日本の生産量については、ビールと発泡酒の合計


生産量
(万kl)
 

 

1 1 中国 2510 11 12 南アフリカ   1 中国 11 南アフリカ
2 2 アメリカ 2308 12 11 オランダ   2 アメリ力 12 ウクライナ
3 3 ドイツ 1053 13 13 カナダ   3 ドイツ 13 オランダ
4 4 ブラジル 852 14 14 韓国   4 ロシア 14 ベネズエラ
5 5 ロシア 757 15 16 チェコ共和国   5 ブラジル 15 カナダ
6 7 メキシコ 664 16 15 フランス   6 メキシコ 16 タイ
7 6 日本 653 17 20 ウクライナ   7 日本 17 チェコ共和国
8 8 イギリス 580 18 17 オーストラリア   8 イギリス 18 コロンビア
9 9 スペイン 306 19 19 ベルギー   9 スペイン 19 ベルギー
10 10 ポーランド 273 20 23 タイ   10 ポーランド 20 ベトナム

日本にビールが入ってきたのは、江戸時代鎖国政策下でも日本と交流できた英米の船が来航してからのことです。万延元(1860)年、幕府の第一回遣米使節の一人、玉虫左太夫は初めてビールを飲んで「苦味ナレドモ口ヲ湿スニ足ル」と書いています。それ以前、ペリーが来航した嘉永6(1853)年に、兵庫県三田村の蘭方医・川本幸民は蘭書の記載を見て、江戸の露月町の私宅でビールを試醸したといわれていますから、これが日本でのビール醸造の起源といえるでしょう。

明治2(1869)年にはノルウェー生まれでアメリカに帰化した醸造技師ウィリアム・コープランドが横浜の山手居留地に「スプリング・バレー・ブルワリー」を創設してビールの醸造を開始し、主に居留外人向けに販売しました。コープランドは、若い頃ドイツ人技師について5年間醸造を学んでから横浜にやって来ました。彼は、そこで「天沼」という清水が湧く池があるのに目をつけて、醸造所を建設し、ビール作りを始めたのです。このビールは、横浜に居留する外国人やイギリス軍の駐屯地なども当時あったので、飛ぶように売れていきました。そして、日本人の間でも「天沼のビアザケ」と呼ばれ、大いに親しまれたそうです。

明治5年に大阪で渋谷庄三郎が日本人では初めて「渋谷ビール」の醸造・販売を本格的に開始、明治6年には甲府で野口正章が「三ッ鱗ビール」を、そして明治9年には札幌で「北海道開拓使麦酒醸造所」が創設され、中川清兵衛を中心に醸造を開始、翌明治10年には東京に出荷されています。明治初期、一時は100社前後のビール会社ができるほどだったそうです。しかし、明治34(1901)年、ビールに初めて課税され、弱小メーカは淘汰され、ビール会社数は約20醸造所となったそうです。明治41(1911)年、年産千石(180キロリッター)以下のビール醸造場免許取消となり、さらに淘汰されるのである。

日本のビール会社の歴史はやや複雑です。

明治3(1870)年
Spring Valley
Brewery
明治18(1885)年
Japan Brewery
【キリンビール】
━━ 明治40(1907)年
麒麟麦酒
━━━━━━━━ ━┳━
━━━━━━━ ━━━ ━━━━━━━ キリンへ
   
明治20(1887)年
日本麦酒醸造
【エビスビール】
大正10(1921)年
東洋醸造
【フジビール】




昭和24(1949)年
日本麦酒
【ニッポンビール】
【エビスビール】
サッポロへ
明治9(1876)年
開拓使麦酒
醸造所
明治20(1887)年
札幌麦酒


明治39(1906)年
大日本麦酒
━━━━━━━━ ━┳━
━━━━━━━ ━┳━


明治22(1889)年
大阪麦酒
【アサヒビール】
昭和8(1933)年


 




昭和24(1949)年
朝日麦酒
【アサヒビール】

【ユニオンビール】
アサヒへ
  昭和18(1943)年 提携
明治20(1887)年
丸三麦酒
【丸三ビール】
━━ 明治41(1908)年
加富登麦酒
【カブトビール】
大正10(1921)年
日本麦酒鉱泉
【カブトビール】



昭和32(1957)年
沖縄ビール
【オリオンビール】
 
明治43(1910)年
帝国麦酒
【サクラビール】
━━━━━━━━ ━━━ 昭和3(1928)年
桜麦酒

昭和32(1957)年
宝酒造
【タカラビール】
  ┗1967年撤退
明治32(1899)年
鳥井商店
・・・・ ・・・・・・・・・・・・・
大正10(1921)
・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
寿屋に社名変更
・・・・・・ 昭和3(1928)年
寿屋洋酒部
【オラガビール】
昭和9(1934)
年、大日本に
売却
昭和38(1963)年
サントリー参入
  大正8(1919)年
日英醸造
【カスケードビール】
━━━    ┃
━━┛
【その他】
浅田ビール:1884年に、コープランドの弟子だった浅田甚右衛門は、倒産したスプリング・バレー・ブルワリー社の醸造設備を購入し、同僚だった村田吉五郎とともに東京府下中野に浅田麦酒醸造所を開設。「浅田ビール」の醸造を開始。しかし経営は振るわず、1912年自主廃業。明治10年代後半から20年代前半の国産ビールを代表する銘柄として「浅田ビール」(1885年発売)と「桜田ビール」(1881年から発売)があった。どちらも英国風ビールであり、大手のドイツ風ラガービールに負けた形となってしまった。
桜田ビール:東京ビールを造っていた東京麦酒(株)の前身は1879(明治12)年に金沢三右衛門によって設立された醗酵社である。 醸造所は、創業当初、東京の芝区桜田本郷町(現港区西新橋)に置かれ、翌80年に麹町区(現千代田区)紀尾井町に移転している。 81年から発売された「桜田ビール」は、「浅田ビール」と並んで、品質と規模の面で明治10年代後半から20年代前半の国産ビールを代表する銘柄であった。1907年には大日本麦酒に買収され保土ヶ谷の工場は製瓶工場へ転換された。

◆キリン
明治2(1869)年設立の「スプリング・ヴァレー・ブリュワリー」を、明治18年に香港法人(J.ドッズ、T.B.グラバーなどが発起人で、当時の日本財界の指導者である岩崎彌之助、渋沢栄一らが出資者となっていた)の「ジャパン・ブリュワリー・リミテッド」と改称し、明治21(1888)年から、ドイツ風ラガービール・麒麟ビールを発売。販売は「明治屋」が担当した。明治40(1907)年に新会社「麒麟麦酒」を設立。全国一銘柄で通してきた同社は、戦後急成長し、60%を超すシェアを誇る巨人として業界に君臨してきたが、瓶詰め生ビール、ドライビールと続く新しいタイプの商品の登場にともなって次第にそのシェアを低下させてきた。しかし近年、新製品の開発に意欲的な取り組みを見せ、「キリン一番搾り」などのヒット商品を送り出している。また、1998年から発泡酒市場に参入し、成功を収めている。ビールの販売数の国内シェアは約38%で業界第2位。

◆旧 大日本麦酒(サッポロ&アサヒ&カブト)
明治20(1887)年には東京で「日本麦酒醸造会社」が設立。明治24年苦境に陥いったが、三井物産重役の馬越恭平氏に再建され、東京地方における絶対的な強い販売力を確立していた。北海道では、北海道開拓史麦酒醸造所が、明治19(1886)年、大倉組に払い下げられ、明治21(1888)年、「札幌麦酒会社」となる。明治22(1889)年には大阪で「大阪麦酒会社」(ブランド名は「アサヒビール」。これは明治17年よりビール醸造をしていた小西儀助氏より商標を譲り受けて付けた名称)が設立。その後。明治26年にそれぞれ「日本麦酒株式会社」、「札幌麦酒株式会社」、「大阪麦酒株式会社」となった。明治33(1900)年、「札幌麦酒」が東京に進出し、「日本麦酒株式会社」の地位も少しづつ奪われていきました。一大事と考えた馬越恭平氏は、じっくり根回しした後、農商務相を動かして、「大阪・日本・札幌」の大手三社を統合させるように勧告させたのです。結果、明治39(1906)年には、「日本麦酒」、「札幌麦酒」、「大阪麦酒」が合併して「大日本麦酒(株)」となり、「麒麟麦酒」と長く対抗し続けたのです。昭和8年には半田の明治20(1887)年創業の「カブトビール」が吸収され、更に拡大していきましたが、昭和24(1949)年、財閥解体により「大日本麦酒」は「日本麦酒」(昭和39年、「サッポロビール(株)」と改称)と「朝日麦酒」(平成元年、「アサヒビール」と改称)に分割されました。

大阪府吹田の『有限責任大阪麦酒会社吹田村醸造所』の製造技術、醸造設備はすべてドイツ製で、ドイツに留学し、ドイツ人技師を招き、冷蔵庫式醸造法(低温下面発酵)が採用されていた。サッポロ、ヱビスも同様な醸造法が採用され大量生産を実現したのである。

◆アサヒ
1987年に発売された「アサヒスーパードライ」は驚異的な伸びを示し、1996年、ついに業界トップ・ブランドの座を獲得した。ドライビールは、麦汁中の糖分を通常よりも多くアルコールに転換し、残留エキス分を少なくしたもので、そのキレのよいのどごしが特徴。この流れは海外にまで波及し、アメリカのバドワイザーやドイツのホルステンも同様のタイプのビールを発売した。

◆サッポロ
星のマークは現存の商標の中では最古の歴史を誇る。また「ヱビスビール」は大日本麦酒のシンボル的銘柄だった。戦後統一銘柄として「ニッポン」を発売したが、昭和32年に「サッポロ」を復活、昭和46年には日本唯一の麦芽100%のプレミアムビールとして「ヱビスビール」を復活させている。また、昭和52年に発売した「サッポロびん生黒ラベル」は生ビールブームを巻き起こした。昭和63年に発売した「冬物語」は、季節限定商品の走りとなり、北海道の原料を使用した「北海道」はビールの原産地表示品として注目された。生ビールに強い会社である。

◆サントリー
明治32(1899)年、鳥井信治郎氏が、大阪に「鳥井商店」を開業し、ぶどう酒の製造販売を始める。その後、大正10(1921)年、洋酒の「(株)寿屋」を創立。大小のビール会社が出現しては、消えていく中で、昭和3年、「寿屋」が「カスケードビール」というブランドを持つ「日英醸造」を買収。昭和5(1930)年から「オラガビール」というブランドにて発売されました。この「オラガビール」の命名は、”オラが”宰相と仇名された首相田中義一氏にちなみ大衆浸透をはかってされました。価格も大瓶1本が、他社が33銭のところを25銭まで下げて販売大手ビール会社をたじたじさせたのです。しかし、洋酒の「寿屋」も経営戦略上の理由から昭和3年から9年までしかビールを作らなかったため、戦後のビール会社は大日本とキリンの2社だけとなっていました。その後再び、サントリーが昭和38(1963)年、社名を「サントリー(株)」に変更し、初のビール工場、武蔵野ビール工場開設。サントリービールを製造発売開始したのです。まだ熱処理ビールが主流だった40年代初頭に、一早く瓶詰め生ビールを発売し今日の生ビール市場に先鞭をつけた。昭和61(1986)年発売された本格派生ビール「モルツ」はいまや定番ブランドの地位を獲得している。また、発泡酒「スーパーホップス」によって現在の発泡酒ブームの牽引役となった。

◆オリオン
アメリカ軍統治下の沖縄で、地元資本によって昭和32年に設立された会社。販売が沖縄県に限られていました。これは、沖縄の産業を守り育てるために保護政策を取っていたためです。酒税の面で、多少本土とは違う税率が適用されています。その特別な条件のためにオリオンビールは最近までは、本土への出荷をしていませんでした。地元沖縄では圧倒的な強さを誇る他、現在では、関東、関西、奄美地域でも販売されている。生ビールに力を入れており、出荷される製品の99%は生ビールとなっている。ビールのタイプは「黒生ビール」を除いてすべて下面発酵の淡色ビール。爽快な喉ごしを売りにしている。全国でのシェアは1%ほどだが、近年発泡酒市場に参入やアサヒとの提携など、新たな展開を見せている。

◆その他
近年まで4社による独占となっていました。戦後から現在までに宝酒造の「タカラビール」というビールも発売されましたが、昭和32年、10年間販売された後、製造を中止しました。平成5(1993)年、日本新党・細川内閣が打ち出した規制緩和政策の一環として、ビール醸造免許の数量的規制緩和方針が発表され、翌平成6(1994)年に酒税法「酒税法の一部を改正する法律(平成6年法律第24号)」の改訂。その結果、翌年の平成7(1995)年には、醸造規模年間2000キロリットルから60キロリットルに引き下げられ、『小規模ビール会社』=『地ビール会社』が日本に次々に誕生するのである。

全国各地に地ビールが誕生し、ブームが起きましたが、最近はブームが下火になっているようです。小口醸造(地ビール)会社の経営もここ数年、急速に悪化してきているようです。地ビール第一号だった「エチゴビール」を出している新潟県の上原酒造は2000年に、ビール・発泡酒醸造&ビン詰め缶詰め部門を分社し、元々関係が深かった同じ新潟の製菓会社・ブルボンに人的支援を仰ぎました。2002年6月には全国販売の先駆けとなった「銀河高原ビール」の関連2社が特別清算に追い込まれました。2001年度は全国の醸造所の数が前年度に比べて21カ所減り、237カ所になりました。

原因の1つは発泡酒との競合が激しくなったことです。350ミリリットル145円の発泡酒(ビールの希望小売価格は218円)に対して、同量の地ビールは平均400円程度します。本来は発泡酒とは競合しないはずの商品なのですが、デフレ傾向の世の中、気軽に飲んでもらえるほどの価格ではないのかもしれません。ただその発泡酒についても、350ミリリットル缶1缶につき2003年5月から10円上がりました。小口醸造(地ビール)会社でも最近は、発泡酒を造っている所があります。


【ビールの味を左右する材料】
次に、ビールの味を左右する材料。何からビールは作られているのか紹介します。

◆水
ビール醸造に使用される水の質もビールの品質に重要な影響を与える。淡色ビール(日本主流)には、軟水。濃色ビールには、硬水が適している。

◆麦芽
ビールを醸造するのには絶対に欠かせない原料。現在使用されているのは『二条大麦(別名:ビール麦)』と呼ばれる大麦を製麦したもので、国内では九州、関東、海外ではオーストラリア、カナダ、ドイツ、イギリス、フランスなどで作られている。麦茶で有名な六条大麦に比べ、粒が大きいため、たんぱく質が少なく、でんぶん質が多い。

◆ホップ
ビール醸造に欠かせないもうひとつの原料。桑科ツル性の植物。チェコやドイツでとれるホップの中でも最高級なものを『アロマホップ』と呼ぶ。下記のような効果があります。
(1)ビールに香りと苦味を与える
(2)過剰なたんぱく質を沈殿・分離させ、ビールを澄んだものにする
(3)雑菌の繁殖を防ぐ
(4)泡立ちをよくする

◆副原料
麦芽、ホップ以外に、コーン、スターチがある。麦汁中の窒素成分や風味が適正になるように、麦汁成分を調整することが副原料の目的です。これらは「ビール純粋令」を出しているドイツなどでは使用されていない。 酒税法の上では、『ビール』という酒類には、原料麦芽の2分の1以下の重量の『政令で定める副原料』を使用することができます。『政令で定める副原料』とは、屑米やトウモロコシデンプンその他の糖類で麦芽の替わりにアルコールに変換できる澱粉や糖類が指定されており、大手メーカー系ビールの大部分はこれを最大限(全体の33%)まで原料に使用しています。多くの銘柄は、33%の屑米、コーンスターチが混ぜられています。麦芽比率を下げて屑米などを加えると、麦芽風味が薄まって、アッサリ味になります。日本では、明治以来、苦くて飲みにくいビール本来の味を薄くする工夫として、安価な屑米を利用してきました。アメリカでは、コーンをこのために利用しました。このようにデンプンを原料に添加して、麦芽比率を下げると、『コク味』が薄れるので、添加前と同量のホップを使用すると苦味が際立ちます。そのため苦味を押さえようとさらにホップ使用量を減らすことになる。こうして、いっそうビールからビールらしさが薄れるのである。さらに、最近の大手メーカの発泡酒は、『ビール』という名を捨てて75%まで麦芽以外の副原料を使用しているのである。

しかしこういった大手メーカーの『発泡酒免許』利用法以外にも、この『政令で定める副原料』以外の副原料を使用した発泡酒の製法がある。

@大手メーカの発泡酒
・醸造原料のうちのアルコールに変換する『麦芽』の使用比率を減らして、その分に当たるアルコール発酵により分解して、エチルアルコールとなる糖類または、酵素によって分解されてアルコール発酵可能となるデンプンを加える方法。
・実際には、使用麦芽比率を50%、25%に減らして、その分屑米とコーンスターチと糖化酵素、砂糖、ブドウトウ等の政令で定める糖類を加える方法。
・コク味成分とアルコールに分解する麦芽比率が低下し、コク味成分が無く全てアルコールだけに変換する精製したデンプン・糖分を加えるため、コク味が低下する方法。

酒税が安くなる分と、醸造過程での手間とコストが省けるので安い値段での提供が可能となる。

A地ビールメーカの発泡酒(個人的希望含む)
アルコールに変換する糖分は全て麦芽100%を使用する。政令で定めるもの以外で、アルコールに変換しないハーブ、薬草、漢方薬などを原料として、使用する方法。麦芽100%のビール本来のコク味と風味を生かした、高付加価値のビールを醸造することができる。『政令で定める副原料』以外のものを少量でも原料として使用すると、酒税法上では『発泡酒』に分類されてしまう。例えば麦芽100%の麦酒原料にショウガを少々加えて醸造すると、英国・正統派『ジンジャエール』となる。また、漢方薬の『レイシ』を使用すれば『レイシビール』ができあがる。


【発泡酒について 】
発泡酒は1994年に、大手メーカの中で最下位のサントリーが開発した「ホップス」が始まりです。麦芽比率が65%とビールに近く低価格のインパクトはかなりのものでした。国税庁は67%と65%では、味に差は認められないからという理由?で、麦芽比率50%までは、同じ税率にするという、酒税法の改正を行いました。その後今度は麦芽比率25%の、サッポロ「ドラフティー」2年後にはサントリーから「スーパーホップス」が投入されビール界にて発泡酒の地位を築いていきました。さらに2年後にはキリンの「端麗生」が参入し一瞬にして発泡酒市場でのシェアを拡大、一時は50%を越えたといいます。そして、「端麗生」から3年、発泡酒が発売されてから7年。沈黙を守り続けてきたアサヒが発泡酒に参入してきたのは2001年2月。発泡酒市場で急速にシェアを伸ばしています。発売からわずか8年でビール・発泡酒全体に占めるシェアは4割にもなっています。家庭用では既にビールを上回っています。発泡酒が人気を集めているのは低価格だからです。350ミリリットル缶でみると、ビールの希望小売価格が218円なのに対して発泡酒は145円です。発泡酒は見た目や味はビールと似ていますが、酒税法上はビールと異なる分類で、課税される金額も異なります。具体的には350ミリリットル缶の場合、課税金額はビールが約77円、発泡酒が約47円で、30円の差があります。

【ビール純粋令】
ドイツのビール造りの歴史は古く、11世紀にはホップの添加されたビールが造られていたそうです。そして15世紀にバイエルン地方で生まれたのが下面発酵ビール。その風味は穏やかで変質が少なく、今日、世界中で愛飲されているビールに近いものでした。15世紀までは、泡立ち、見た目、日持ちを良くするため、ビールにはさまざまな原料が使われていました。そこで1516年、バイエルンのウィルヘルム4世により発布されたのが「ビール純粋令」という法律です。ビールの品質維持のため、原料を「麦芽、ホップ、水」に限定しました。

国内有名メーカのビールについては、数が数なので、この法律に合致したビールを紹介しています。


【地ビールの日】
1999年、日本地ビール協会を中心として、小田良司会長、エチゴビールの上原誠一郎社長などが発起人とする地ビールの日選考委員会は地ビールの発展を願って、「4月23日」を「地ビールの日」に制定した。この日は、ドイツのビール純粋令(1516)が制定された日。ドイツでも1995年に「ビールの日」となっている。


【ビールの世界シェア】
合併・買収(M&A)が加速している。2004/8にはベルギーのインターブリューがブラジル最大手の飲料会社アンベビとの経営統合し、統合新会社「インベブ」は2003年にシェア首位だった米アンハイザー・ブッシュなどを抜いて、世界生産量でトップに躍り出た。米大手のアドルフ・クアーズはカナダのモルソンとの合併で合意。2003年には英SABミラーが伊大手、インターブリューが独大手・シュパーテン社をそれぞれ買収している。現在、各社は2003年に世界最大のビール消費国となった中国に期待をかけている

2008年、インベブとアンハイザー・ブッシュが合併しアンハイザー・ブッシュ・インベブが誕生している。

順位 1998年 2001年 2004年
アンハイザー・ブッシュ(米) アンハイザー・ブッシュ インベブ(ベルギー)
ハイネケン(オランダ) ハイネケン アンハイザー・ブッシュ
ミラー(米) インターブリュー SABミラー(英)
インターブリュー(ベルギー) Brahma ハイネケン
SAB(南アフリカ) ミラー カールスバーグ
Brahma(ブラジル) SAB モルソン・クアーズ(カナダ・アメリカ)
カールスバーグ(デンマーク) カールスバーグ モデロ
モデロ(メキシコ) Scottish & Newcastle(英) 青島ビール(中国)
Foster's(豪) モデロ BBH(露)
10 キリン(日) キリン Scottish & Newcastle
2005年 会社名 シェア(%) 2007年 会社名 シェア(%)
インベブ 18.2 SABミラー 13.1
SABミラー 16.8 インベブ 12.8
アンハイザー・ブッシュ 16.1 ハイネケン 9.3
ハイネケン 12.5 アンハイザー・ブッシュ 8.5
カールスバーグ 10.3 カールスバーグ 6.8
    モルソン・クアーズ 3.3
    グルポ・モデロ(メキシコ) 2.9
    青島ビール 2.9
    燕京ビール(中国) 2.3
10     10 FEMSA(メキシコ) 2.2